1985年、阪神タイガースは吉田義男監督のもと、1964年以来21年ぶり7度目のセ・リーグ優勝と、1リーグ時代から約38年ぶり、2リーグ制になってから初となる日本一を達成しました。
優勝前年 – 1984年のごたごた
監督・安藤統男の辞任
もともと、1984年に監督を務めた安藤統男が、1985年も続投すると発表されていました。
しかし、10月3日の時点で阪神・掛布雅之と中日・宇野勝の本塁打数が共にリーグトップ(37本)だったため、安藤監督は中日の山内一弘に勝負するのかを確認。
すると山内からは、掛布を敬遠するとの返答が。
それを受けて安藤も敬遠を指示し、10月3日と5日の阪神-中日戦では、掛布と宇野の両者が全打席敬遠。結果的に本塁打王を分け合う形となります。
四球合戦にファンはブーイング。球団事務所には抗議の電話が殺到し、マスコミも批判しています。
さらに阪神のオーナー・田中隆造も難色を示していたことを聞いた安藤は、8日に辞任の意向を伝え、のちに正式に辞任が発表されます。
これを受けて、吉田義男が1985年の阪神監督して指揮を執ることになりました。
レギュラー陣の整備
捕手
1984年はレギュラーが一部固定できず、捕手に山川猛(西武からトレード)と笠間雄二(阪急からトレード)を併用、中堅に弘田澄男と北村照文を併用していました。
特に生え抜きが育たない捕手に難があると感じていた吉田監督は、プロ入り3年目の木戸克彦を正捕手に指名します。
高校・大学でキャプテンを務めた木戸に対し、打力ではなくチームをまとめる能力があると判断しての起用でした。
木戸には独自の捕手リード論があり、これがはまって投手陣からの信頼を獲得。
打撃も好調で、1985年は自身唯一の2桁本塁打も放っています。
一塁
入団した1983年は35本塁打のバースですが、日本2年目の1984年は27本塁打に減少。
守備走塁に難があるため、打撃成績の落ちたバースは評価が分かれる状況に。
85年も続投予定だった安藤監督は、バースを来季の戦力外として球団に伝えていました。
しかし吉田監督は、バースの打力には魅力を感じており残留を要請。
結局バースは退団することなく、1985年には54本塁打と爆発することになります。
二塁と外野
元々は内野手だった岡田彰布ですが、1983年の怪我を機に1984年は主に右翼を守っていました。
しかし、人気のある岡田は内野にいてこそ、さらに将来岡田が監督になった時のために内野の方が良い、との考えから、吉田監督は岡田を二塁に再コンバートします。
1984年は真弓明信が二塁を守っていましたが、岡田の二塁コンバートを受けて外野へコンバートされます。真弓自身は、試合に出れればポジションはどこでも良いと答えたそうです。後年、競争が激しい外野で生き残るために、長打を意識したと語っている真弓。結果、1985年は自己最多の34本塁打を放ちます。
優勝へ – 1985年
レギュラーシーズン
開幕投手にはプロ2年目の池田親興が抜擢されますが、延長戦の末サヨナラ負け。
しかし、4月は絶好調。
17日にバース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発が生まれるなど、9勝3敗1分で首位でした。
5月は6連敗で一時3位まで後退するも、最終的には12勝10敗で首位をキープします。
6月は1番打者の真弓が怪我で1ヶ月近く離脱するも、10勝7敗3分で首位をキープ。
7月は、前年(1984年)日本一の広島が奮闘。対広島戦は5月から8連敗するなど、阪神は広島相手に苦労することに。月間では9勝9敗ながら、首位を広島に明け渡し2ゲーム差の2位でした。
8月は、夏の高校野球開催によりホームゲームが少なく(いわゆる「死のロード」)、6連敗を喫するなど苦戦。しかし最終的には13勝10敗1分で首位を奪還。
9月は、ダブルストッパーの1人、抑えの山本が「左アキレス腱断裂」によって今季絶望。中西が1人で抑えを任されるも、13勝5敗1分と大きく勝ち越し。首位をキープしています。
10月16日、対ヤクルト戦に引き分けるも、優勝が確定。
日本シリーズ
パリーグ覇者の西武ライオンズ相手に、4勝2敗で見事日本一に輝きます。
この時、ファンがケンタッキーフライドチキン道頓堀支店前にあったカーネル・サンダース像を道頓堀に投げ入れてしまいます。
そのまま像は行方不明になると共に、阪神は2003年まで18年間も優勝から遠ざかることになります。
俗に「カーネル・サンダースの呪い」と呼ばれるが、2009年に無事像は発見されています。
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